- 極北の狩猟民族特有の死生観と現実主義
- 現代の「未来に組み込まれる」生き方との比較
- 読書感想文を通じて見つめ直す「今を生きる」意味
1. 角幡唯介著『狩りの思考法』
今回、読書感想文を書くのは角幡唯介著、「狩りの思考法」という本である。
何をきっかけにKindleのおススメに表示されたのかは分からないけれど、
何となく面白そうな本はないかなと探していて、普段読まないタイプの本も読んでみようと思い立ちダウンロードしてみた。
最近読んでいたファンタジー小説とは違って、読むのに時間がかかってしまった。
背景を簡単に説明すると、
カナダやグリーンランドを頻繁に旅するノンフィクション作家である角幡唯介氏が、現地の人々の思考、特に倫理観や人生観を筆者なりに理解して、また筆者の経験を通して分析、解説した本である。
読んでみると、
「我々の感覚にはない思考を論理的に文章化することで、何とか理解しようとする。理解はできるけれど、やはり同じように考えることは難しい。」そう思わさせる文章であったと思う。現代文の問題にとても使いやすそうな文章であった。
筆者にとっては、もしかしたら、こうありたいという願望、自身の経験の確立という意味もあるかもしれない。
内容は大きく分ければ2つの柱からなると思われる。
それは、極北に住む人々に特有の「生と死の隔たりの薄い」死生観、
もう一つは文中で「ナルホイヤ、アンマカ」と表現される独特の現実主義とでもいえるだろう。
もちろん、その2つの間には共通するところもある。
2. 極北の死生観と日本の死
1つ目の死生観に関して、まず一つ驚いた事実が書かれていた。
極北に住む人々は、自殺率が異常に高いということだ。
寒くて暗いところだから、うつ病の発生率が高い為という、
日本の山形県的な理由ではなく、これは彼らの文化というか特殊な狩猟民族特有の生活環境によると述べられている。
狩猟民族であるが故に、先ほどまで生きていた動物を食べる。家の中の貯蔵庫にも、切り出したままの生肉があり、村の中で動物を解体するシーンは毎日見られるのだという。
そのために、生と死の隔たりが薄く、自殺率が高いとのことであった。
一方、日本では、極北の人々と変わらないほどの量の肉を食べているにもかかわらず、牛や豚を殺すシーンなんてものはまず見られない。
「死が隠されている」ということであった。また、最近では自宅で息を引き取るなんとシーンもない。老人や病人は病院か施設で、運が良ければその瞬間だけ家族に看取られるのが殆どである。
また、自殺や事故があったとして、その現場はすぐに綺麗に元通りになる。身体はすぐに病院に運ばれ、ほとんどの人は翌日には忘れてしまう。
どこか無理矢理、かつ無意識のうちに「死」というものを自分の中から追い出しているという気がするのは自分だけだろうか。
自分は職業上、老若男女を問わず、人の死を目の当たりにする。
もちろん悲しいという感情はないわけではないが、全くいつもと同じように食事をして夜は眠ることができる。
生活をしていて、一般の人より死を近くに感じることはないと思う。
どうにも、日本で(先進国で?)育つ中で、死を身近に感じる必要がないように育っているのではないかと思われる。ほぼ安全が保障された環境では、常に死を恐れながら生活するのはコストパフォーマンスが合わないということだと思う。
3. 「わからない、たぶん」の現実主義
この環境の違いから、極北に住む人々は、我々にはない現実主義をもっているという。それが、この本の2本目で最大の柱である「ナルホイヤ、アンマカ=わからない、たぶん」観だ。

彼らは、予定を立てることが苦手なのだという。狩猟民族であり、自然がすべてを支配している環境では予定をたてても、その通りに動くことがない。
その瞬間において、ただし今までの経験は活かしながら「臨機応変?」に動くべきだということらしい。筆者は「現在が未来に組み込まれることなく生きている」という表現をする。予定をたてて行動することは間違っているのである。
一方、我々は、事前に予定をたてて動く。どこかに行くにも地図を見て、口コミをみて、「現在の行動を常に未来に組み込んで生きている」のだという。
これは死生観にも共通している。たとえば、自分は今も頭の半分で、家に帰ったら何をしようかだとか、明日の仕事はどう乗り切ろうか、明後日の祝日は何をしようかなんて考えている。毎日、こどもが大きく育ったら仕事をさっさと辞めて、どこか海の近くか山の中にカフェでも開こうかなんて考えている。
35年の住宅ローンを組み、NISAなんてやりながら、数年後、数十年後のことまで考えている。時には、仮想の世界に逃げてゲームをしたり、ありもしない妄想をしたりもしている。つまりは、1分先、1時間先、1日先、1年先、10年先まで自分が今のまま生きていると予測して動いているのである。
勿論、それは決して悪くはないことだと思う。というか、そうでなければ生活など続けていけはしない。
ただし、実際は1年先ともなると分からないということを忘れてはならないと、この本を読んで思った。
死ぬわけではなくても、戦争が起きるかもしれない、また感染症が流行るかもしれない、大地震がおきるかもしれない。いつだって「予想通り生きている」状態が続くとは限らないのだから、常に意識する必要はなくとも時々は現在を生きることを思い出すのがよいだろうと思う。
死を恐怖するのではなく、今の生を謳歌することを忘れるなということで良いと思う。もしくは、「今を生きている、楽しむ」という行動を日常に組み入れることも意味があるだろう。
4. 今を生きるためにすべきこと
となると、自分がいますべきことは何だろうと思う。
そして考えてみると、実は今までとあまり変わらない、というか今までも別に間違ってはないのではないかと思う。
疲れていても子供たちと頑張って遊ぼう。少し高くても、食べたいものがあったら食べて、買いたいものがあったら買って、行きたいとこがあったら行こうと思う。
あとは、本当に健康には気を遣って、さっさと体調を良くしないといけない。
この本を読んで、自分は今のままでもまだ大丈夫だ、と思えるのであれば、それは幸せなことなんだろう。
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5. 読書感想文と語彙への思い
なんだか、こういう本の感想文を書くのは高校生の時以来で、とても難しかった。
昔は読書感想文は自分をさらけ出すようで恥ずかしいことだと感じたのを思い出す。今でも、全く恥ずかしくない訳ではないが、気にしなくてもいいことだと思えるようになった。
ブログを書き始めて気付いたのだが、自分の語彙は実は少ないということだ。
表現をより的確にしたいのに選択肢に浮かんでくる言葉が少ない。
本を読んでいると、普段の会話では使うことが無いけれど、文章の中では存在感を持つ言葉がたくさんある。自分はそれを読んで理解することはできても、文章の中に入れられないというのがとてももどかしい。
物書きを仕事とする人たちの凄さを感じる。どうすればいいのだろうか。やはり、本を読んで、その中で気に入ったフレーズを反芻したり、ふと思いついた表現を記憶しておいたりするべきなのだろうか。
とにかく、本を読んだり、物思いをしたりするにも、ただ漫然としていては勿体ないなと思った次第である。twitter(現X)も、もっと気合をいれてつぶやくべきだ。
それでは、いつか私の子供たちも、本を読んでくれることを祈って。
2025年2月9日